本尊脇侍 釈迦十大弟子 多聞第一 あなんそんじゃ 「阿難尊者」 |
お釈迦さまの教えは、お釈迦さん自身が文字にして書きとめられ文書の形で残っていたわけではありません。むしろ、生前中は記録することを禁じておられました。お釈迦さまの説法を聞いた弟子たちがそれぞれの記憶に留めていたのです。ですから、仏教経典の書き出しは、「如是我聞 〈ニョーゼーガーモン〉(私はこのように聞いた)」 で始まっているのです。 お釈迦さまが入滅(没)すると、その教えがバラバラになってしまい、勝手に解釈されることを恐れた摩訶迦葉尊者は、すでに釈迦の教えをまとめる会議【第一結集(だいいちけつじゅう)】を開くことを決意しました。会議には、悟りを開いた弟子を参加させねばなりません。ですが、弟子たちの中から、阿難尊者の出席を望む声が上がった。阿難尊者は、まだ悟りを開いてはいないが、侍者(お世話役)として常にお釈迦さまのそばに仕え、行動をともにしていた。釈迦の教えをまとめるに当たって、最も教えを開いた者、多聞第一といわれる阿難尊者を欠かすことができなかったのでした。ですが、阿難尊者自身は、まだ悟りを開いていない。合議に出席することをためらわれていました。自分のように悟りを開いていない弟子には、参加資格がない、出席は遠慮しよう会議の前夜 阿難尊者は夜遅くまで思い悩んだのです。はじめて侍者となってからお釈迦さまが涅槃に入るまでの二十五年間、常に釈迦のそばに仕えてきた。その間、じかに教えを聴いていたにもかかわらず、悟ることができなかったのであった。いや、だから」悟ることができなかったのかもしれない。苦しみ悩んだ夜も明け いよいよ会議の開かれるという日の朝、彼はついに悟りを開くことができました。 ここに、彼を含めて五百人の弟子が集まって、ラージャグリハの郊外、七葉窟(しちようくつ)において経典をまとめる会議が始まりました。摩訶迦葉尊者が議長を務め、戒律についてはウパーリが中心になってまとめ、教えは阿難尊者が中心となってまとめたのでした。そのとき、こんな場面があったそうです。 「世尊(お釈迦さま)は、細かい戒については廃止してもよい、とおっしゃいました」 阿難尊者が、釈迦のことばを伝えると、当然のように質問する者が現れた。 「具体的にどの戒を廃止して、どの戒を残せ、といわれたのか」 ところが、阿難尊者はそこまで確認していなかったのです。阿難尊者を責める声が上がった。こんなに大事なことを、どうしてきちんと確認しておかなかったのか、というわけです。結局、合議では、細かい戒をふくめて遵守(そんしゅ)しなければならないという結論に達した。だが、このいわゆる ″小小戒(しょうしょうかい)の是非をめぐる議論は、後に教団の分裂を紹くほどの問題となっていったのです。 阿難尊者は、女性の弟子つまり尼僧教団を釈迦に認めさせたのは彼の功績だったということです。お釈迦さまは、当初、女性が出家することを許していませんでした。お釈迦さまの育ての親マハーパジャパティは、夫であるシュッドーダナ王の死後、自分も出家したいとお釈迦さまに申し出ましたが、お釈迦さまは、それを許しませんでした。どうしても出家したいという願いを捨てきれないマハーパジャパティは、同じ思いを抱く釈迦族の女たちと、黒髪を切り、手に鉢をもって裸足でお釈迦さまの跡を追いました。それを知った阿難尊者は、女性の出家をお釈迦さまに願い出ました。ですが、釈迦はそれを認めませんでした。だが、これまでお釈迦さまに背いたことのない阿難尊者は、何回も願い出て、女性の山家の正当性を、主張したのです。お釈迦さまも、それを良しとして女性の出家を認めたのです。 |