ねんげみしょうざぞう 「拈華微笑坐像」 |
元禄12年、この地に荒尾家の菩提寺として創建当時からの本尊です。
本尊の釈迦拈華微笑坐像は、右手に を優曇華(うどんげ)を持ち、微笑む姿です。 お釈迦さまが生前に、説法をした逸話の仏像で両脇にお弟子の阿難尊者と迦葉尊者の立つ全国的に珍しい仏像です。 「その時 釈迦牟尼佛 西天竺国霊山会上百万の衆中に 優曇華を拈じて瞬目す。時に摩訶迦葉尊者、破顔微笑す。釈迦牟尼佛曰く 吾に正法眼藏涅槃妙心あり、摩訶迦葉に付属す」と−− 「正法眼蔵」面授より −− |
本尊坐像は全高1メートル30センチ 脇侍立像は全高90センチ この本尊三体は、平成12年6月より、約1年をかけて修復されました。 |
拈華微笑とは? |
生前のお釈迦さまが、晩年、王舎城の近くの霊鷲山(りょうじゅせん)で弟子をはじめ、たくさんの信者が集り、説法を日々つとめておられた時の逸話です。 ある日に、限って大梵天王(だいぼんてんのう)の捧げた優曇華【金波羅華(こんぱらげ)(蓮華)】をつまんで、会場の人々に示しただけでした。お釈迦さまは、何も話そうとせず、だれも何のことかわからず、ポカンとしていたが、ただ一人、摩訶迦葉尊者だけが、お釈迦さまの意を悟って、にっこりと微笑んだのでした。それを観たお釈迦さまも同じく微笑み、静かに説かれました。 「我に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、涅槃妙心(ねはんみょうしん)、実相無相(むそうじっそう)、微妙(みみょう)の法門(ほうもん)あり。教外別伝(きょうげべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)、摩訶迦葉に付嘱す」(無門関 第六則より) 「口で説くことのはできない真実の教えの全てを摩訶迦葉尊者に伝授することにしよう」(自分には、正しく無上の法門、仏と宇宙の根本原理、法の真実の姿、非常に深く不可思議な法門がある。それは言葉ではいい表せない以心伝心のものだが、これを摩訶迦葉尊者に伝える)というのです。これが「拈華微笑」といわれるゆえんです。 禅宗(曹洞宗・臨済宗・黄檗宗)では、根本思想は、「不立文字・教外別伝・直指人心(じきにんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」の四つの言葉になります。その大意は、 「経典や言葉に頼ることなく(不立文字)、説かれた言葉以外に真理が存在し(教外別伝)、仏性をもつ本来の自分に気付くこと、それが悟りである(直指人心・見性成仏)。」だから、他の仏教宗派は、すべて経典を中心とした教学をもっていますが、禅の場合は、拠って立つべき経典がないのです。 経典や教学以外に別に伝えられるもの、つまり教外別伝のほうが大切で、絶対不可欠なのです。悟りを得るために、いくら経典や先師の著作やその語録などを読んで勉強しても肝心のところでは、役に立たない。だからといって、それをすべて否定してもいいというものでは決してない。要するに、どんな経典にも束縛されない、ありのまま自分の眼を持つことが大切なのです。 たとえば、あなたが水泳を習うとします。けれど、いくら教則本を繰り返し読んでも、絶対に泳げるようになりません。教則本が悪いのではないかと他に変えたところでも、どうなるものではありません。泳げるようになるためには、実際に水に入り指導員に直接指導をうけながら、練習、実践しなければなりません。早い話、禅もそれと同じで、実践・体験による「会得する」といった意味合いでしか絶対にわかりません。言葉にして伝えようにも、伝えられないものがあります。無理に言葉にすれば、厳密な意味において嘘となってしまう。それは経典においても例外ではありません。そこで禅では、一切の文字や言葉による伝達を避けて、お釈迦さまと同じ体験、すなわち坐禅にひたすら励むのです。だからこそ、禅では、坐禅の修行が根本であり、その体験を重要不可欠としています。 真理に至る門は、百万言を費やしたところで伝えるのは無理ですが、それを、摩訶迦葉尊者はお釈迦さまに微笑により会得の器を示しました。いわゆる、ここ、この時からが、禅宗の始まりです。摩訶迦葉尊者に受け嗣がれた無上にして微妙の法門は、また阿難尊者によって継がれることになる。その流れの果てしのない末端が、ここに現前しているのです。 |