本尊脇侍 釈迦十大弟子 頭陀行第一 まかかしょうそんじゃ 「摩訶迦葉尊者」 |
摩訶迦葉尊者は、頭陀行(ずだぎょう)第一といわれました。頭陀行というのは、衣食住に村する執着を払いのけるために実践しなければならない行のことです。たとえば、ボロで作った衣を者なければならない【著幣衲衣(じゃくへいのう)】という行では、彼は釈迦からもらった糞掃衣(ふんぞうえ)をまとって生活をしました。あるいは、常に托鉢して歩き【常行乞食(じょうぎょうこつじき)】、布施されたものを一日一食たけ摂って生活する【受一食法じゅいつじきほう】という行も、その通りに実践しました。彼は 出家してから生涯を終えるまで、このような頭陀行を実践し続けたのでした。 摩訶迦葉尊者は本名をピッパリといい、裕福なバラモンの子として生れました。幼いころから求道心が篤く、出家に村する激しい憧れを持っていました。父母は、子どものそうした望みを知っていたので、早く嫁をとらせ、家を継がせようとしました。結婚すれば、落ち着くと思ったのです。ピッパリが年ごろになったとき、父付は言った。「嫁を迎え、早く安心させておくれ」だが、出家の望みを絶ちがたいピッパリは、黄金の娘の像を作らせて、父母に結婚を断るための条件を出した。「もし、光り輝くこの像より美しい乙女がいるようなら、結婚いたしましょう」 父母は、人をやってそれより美しい娘を探し出したのです。 バッダー・カピラーニーというバラモンの娘でした。嫁にふさわしい・娘がいたと聞いたピッパリは、自分の眼で確かめるため托鉢する修行者に身をやつして、娘の家を訪ねました。そこで施しを乞うと、出てきたのは、バッダーでした。これが話に聞いた娘に違いないと思ったピッパリは、正直に身分を明かし、生涯独身で清浄な生活を送りたいという自分の望みを素直に打ち明けたのです。すると、「ああ、その話を聞いて安心いたしました。実は、私も同じ思いだったのです」 なんとバッダーも同じ希望を持っていたのでした。 二人は、それぞれの親を安心させるために結婚することにしました。だが、決して床を共にすることはなかったのです。月日は流れ、すでに父母も亡くなった。だが、二人の思いも関係は変わらなままでした。ある日、油を搾り取ろうと胡麻を乾かしていたバッダーは、そこにたくさんの小さな虫を見つけた。今まで油を作るために、知らずに虫を殺していたのかもしれない。その罪を思うと、殺生するわが身があさましく思われました。そのころ、畑で農作業をしていたピッパリもまた、同じ思いにとらわれていました。帰宅した二人は、お互いの気待ちを語り合い、ついに家を捨てて出家することにしました。家財道具をことごとく使用人に分け与えると、自分たちは衣となる布一枚と鉢を持って旅立つったのす。「良い師に巡り合ったら、必ずお前に知らせる。それまでは、別の道を歩もう」二人は再会を約して、それぞれ別の道を歩いていきました。妻と別れ、各地を旅して回ったピッパリは、ニグローダの樹の下に坐っているひとりの聖者に出会いました。その姿は、見るだけで心が清らかになるようでした。その聖者こそお釈迦さまでした。「あなたより他に、私の師はいません。どうか私を弟子にしてください」こうして、ピッパリはお釈迦さまの弟子となり、 迦葉(カツサパ) 族の出身であるため、以来摩訶(偉大なる)迦葉と呼ばれるようになったのです。お釈迦さまの教えを聴いて八日目、摩訶迦葉尊者は悟りを開きました。その後、尼僧教団ができると、摩訶迦葉尊者は、神通力で妻のバッダーを捜し出し、弟子入りさせました。釈尊の人滅後は、その教えをまとめるなど、実質的な後継者として活躍したのは知られる通りです。 |