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満正寺縁起

 満正寺は、元禄十二年(1699)夏、満正院殿別峯恕心居士(倉吉荒尾二代宣就公)の十七回忌の時に、三代秀就公が現在の地に開山創建されました。以後、荒尾家の菩提寺として幕末まで庇護されることとなりました。

 元禄時代は、五代将軍綱吉の治世である延宝八年(1680)から、宝永六年(1709)のことをいいます、この三十年は、江戸時代初期の高度経済成長の勢いと、幕府の財政も若干余裕があったため、綱吉は寺社造営事業に力を入れます。綱吉の政治に大きな影響力をあたえた母、桂昌院が深く仏教に帰依していたことも要因です。しかし、元禄五年(1692)、幕府は新規寺院の建立の禁止令を出します。

 もともと、荒尾家の菩提寺は鳥取市新品治町の景福寺にあり、倉吉では、初代・二代とも長谷寺との交流があったようですが、三代秀就公は、定光寺末北野安楽寺の荒廃寺(本尊行基作延命地蔵)をこの地に移し、復興するという名目の元、定光寺末安楽寺より景福寺末満正寺と改名して倉吉荒尾の菩提寺を建立し、景福寺十六代コ翁禅師(既に死去・名のみ)を開山住職に招き、約参千坪の境内山林田畑を先祖の祭祀の資に備え、寄進されました。

  当時の満正寺創建へ荒尾家の資本は相当なもので、現在も安置する「拈華微笑の釈迦本尊」も「阿難迦葉の弟子脇持」は、江戸彫刻の最たるもので禅宗の風色を意識して作られたものです。脇本尊の達磨禅師と大権修理菩薩も大きく細かな細工で十六羅漢尊像まで奉る倉吉の中でも豪華たる内陣を構えております。

ほうきのくにくらよしさむらいやしきまちやのえず

伯耆国倉吉侍屋敷町屋之絵図

クリック 絵図では、右上に満正寺が、描かれております。

 

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